母親とは難しい (注意:長文で、愚痴ばかりです)


近所の公園に夏から秋にかけて濃い青の朝顔が咲いていた。

朝顔の一種だろうけれどなんか違うかな〜?と思っていたら

それを育てて分けてくれる人にうちの母親が遭遇。

育てている人いわく、鉢植えでは花は咲かないかもだったのだが

今朝、咲きました。



ま、育てたのは母親なのでえばれたものではありませんが

ベランダで濃い緑の葉と濃い青の朝顔は気持ちがいいですね。


琉球朝顔というのだそうだ。




私は植物を育てるのは苦手です。

小学校の時から、葉っぱはぐんぐん伸びるが花は咲かない。

栽培のクロッカスも、これ何?ってぐらい背丈は伸びるのに

花は咲かなかった。

毎年、みんなで育てる朝顔も向日葵も花が咲かない。

手から変なものでも出ているんでしょうかねぇ。



一緒に住んでいる母親ともあまりうまくいってないので

もう独立でもしちゃおうかなぁと、漠然と考え中。


我が家は江戸っ子なので、昨日がお盆の入りだったのです。

お墓にお迎えに昼間に行って、夕方にお迎え火を焚くわけです。

朝、母親がお墓に行くというので

「ちゃんと父親も迎えにいってきてよね」と言ったら

一刀両断「いやっ!」でした。

弟だけを迎えに行く心づもりの母親なのでした。


同じお墓にいるんだから、どっちか一人だけなんてことは

できっこないのに、心理的には父親は帰ってこなくていいという

ことらしいです。

まぁ、夫婦であり、男女であるので、娘の私にはわからない

あれやこれやがあったのは、想像に難くないのですが

それでも死んじまったもんに対して、もういいじゃねぇかよって

思うわけです。


今、私が母親と一緒に暮らしているのも

元を質すと、父親と弟の死に繋がるわけです。

一番の問題は、私が一緒に暮らしていることが、ここに起因しているってことに

母親自身が全く理解してないところにあるのです。

だから、母親にとってはいつまでも私はだらしなくダメな娘なのですね。


そんなわけですから、

日々のいちいちのことが、とにかく文句というオブジェで飾られているのです。

子供の頃から、褒めたりするのは弟のみで、

私には、まずは文句があって、それから最後につけ足しとして

ちょっとだけ褒めるという人でした。

それが40を過ぎた娘に対しても、変わらないんですね。

ある意味、不変。不変過ぎるほどです。


前職を畳んで、あれこれ今後について暗中模索中の私にも

容赦のない、恐ろしい罵詈雑言が降ってきておりました。

今でも、私の人生には不満がいっぱいらしく

ことごとく、否定をすることで良しとしているようです。


今、一緒に住んでいる家は、父親が亡くなった後に買った家なので

本来は弟と母親で住んでいました。

だから私が弟の替わりのように住んでいることも不満なのです。

弟が亡くなった今となっては、この家は母親のルールの下に

全てが動いているわけです。

そのルールは細かいことからいろいろありますが

母親の中で成り立ち完結しているんですよね。

説明もなく、相談もなく、了解もなく、存在するルール。

そのルールを知らないがために私はいちいち間違えるわけですが

そのたびに、ものすごい勢いで攻撃してきます。

そしていつも「どうせあんたは何もする気がないから覚えないのよ」と

くっついてきます。

「何もする気がないのではなく、

 何もさせたくないあなたの意向に沿っているのです」

と言いたくなりますが、私、争いごとはものすごく苦手なので

頭の中だけで呟きます。

私にとってそこは、住まいではなく永遠に仮住まいの感覚なのです。

いつまでもこの家の住人として受け入れてもらえることがないのです。

なぜなら、そこのもう一人の住人は弟しか認めてないから。


私がグループ展や個展を開くたびに

母親はお友達(生まれたころから知ってる人たち)と一緒に見に来ます。

見に来てくれることは大変ありがたく思っていますが、

お友達たちがみなさん私の写真を見て

「寂しさや孤独や静寂を感じるのだけれど、

 普段のあなた(私のこと)からすると、

 そんな感情があるようには見えないのよね」

と言います。

その時に、私は説明をしようとしても母親にさえぎられるわけです。

「あるわけないじゃない。こんな自分勝手、好き勝手に生きてるのに!」と

全否定されてしまいます。


私は、子供のころからずっとずっと

母親によって孤独であることを強いられてきたのだと

自覚しています。

でも、それで恨んでるとかぐちぐち考えるとかではなくて

私は、もはやそういう人格として40年以上生きているので

そういうもんだと思っています。

いいとか悪いとかではなく、

それも私という人間を形成している1つの要素なのです。

それ以上でも以下でもない。


で、母親に上記のように全否定されると

「あなたねぇ.....」と文句のひとつでも垂れたくなりますが

頭の中だけでとどめておきます。


私が針穴写真にはまった理由の1つとして

実は、この孤独感と静寂の表現があります。

自分の中で行き場がなく、持て余していたこの感情を

針穴写真によって吐露できるような気がしているのです。

とはいえ、見てもらうとわかるように

別にすごくさびしい写真ばかりを撮っているわけではありません。

いろんな自分の中のテーマのひとつとして、

孤独感と静寂の表現もあるってところですかねぇ。


長々と、珍しく愚痴めいたことを書いてますが、

コンパクトにまとめると

女同士だからなのか、母親と娘は難しいってとこです。

あーあ。

ホントは個展の話も書こうかと思ってたけど

この枠と一緒にするのは嫌なので、やめておきます。